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石橋を叩けば渡れない

 数年前、所属する組織から依頼がありとある機関誌に投稿したことがある。本来なら、とりくみの概要や成果を書くべきだろうが、そんな内容では読んでもらえないことはわかっていたので、ちょうど南極のドラマが放映されていたこともあり、タイトルのような題名でとりくみの理念を記した。また超慎重派に対しての排他的意味を込めたものだった。
 先日、同業者の研修に出かけた際にひとりの女性から呼び止められた。その方は既知の間柄ではあるが、近況を報告しあうような間柄でもない。社交辞令で空々しいあいさつでやり過ごそうと思ったところ、やや興奮気味で、「石橋を叩けば渡れない」にとても感銘を受けている。今も目に付くところに置いてある。というのだ。続き
 書かれた内容とは、次のような内容。

 第一次南極越冬隊の隊長を務めた、探検家であり科学者であり、日本の代表的登山家である西堀榮三郎氏の言葉に「石橋を叩けば渡れない」という名言がある。このフレーズは西堀氏の著書のタイトルにもなっており、その人となりは、何度も映画やドラマ化がされご存じの方も多いだろう。
 この言葉が言おうとしていることは、石橋の安全を確認するために叩いてから渡るか渡らないかを決めようと考えていたら、おそらく永久に石橋は渡らないことになるだろうということだ。言い換えれば、何か新しいことをする時には、まずそれをやるかやらないかを決定することが必要であり、新しいことには必ずリスクがあるもので、事前の調査や分析で、やらない理由探しになってしまっては到底新しいことはできないという意味で、氏の人生観に根ざしたものといえる。「石橋を叩いて渡る」という慣用句で示すところの、非常に慎重にとりくむ姿勢を否定的に言いながらも、ただ無謀にすすめと言っているのではない。
 新しいことに限らず、何事をするにも「目的」と「手段」を区別してとりくまなければならないと考える。例えば普段の仕事においてもその目的は絶対であるが、手段についてはある程度自由にできたり、複数の方法を同時に行うことができたりする。それだからこそ創造性を発揮でき人間的欲求を満足させ、意欲を掻き立たせてくれるのである。またそこには責任感が生まれ、終末にはそこはかとなく成就感を味わうことができると考える。
   (中略)
 「石橋を叩く」道具や手段はいろいろあるが、これから先、幾つもの石橋を渡って行くには、若い人の創造性あふれるアイディアに期待する。萎縮して停留することや「叩いて渡らない」ことは決して賢明とはいえない。

 今読み返すと、そんなに大した文章でもないし、世代の継承を気にする余り、結構乱暴な表現もしている。しかし、この歳になっても他人から褒められることは嬉しいもので、小躍りしたい気分だった。おそらくだらしない顔をしていたに違いない。